法然上人について

法然(ほうねん)上人とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧侶で、浄土宗の開祖でございます。
「法然」は房号で、諱は源空(げんくう)、幼名を勢至丸、通称黒谷上人、吉水上人とも言われておられました。
大師号は、現在「円光(東山天皇1697年)・東漸(中御門天皇1711年)・慧成(桃園天皇1761年)・弘覚(光格天皇1811年)・慈教(孝明天皇1861年)・明照(明治天皇1911年)・和順(昭和天皇1961年)大師とされており、50年ごとにときの天皇より諡号を賜るものでございます。
法然上人は真宗七高僧の第七祖とされております。
浄土真宗では、源空(法然上人)を元祖とされております(親鸞は、開祖もしくは宗祖と呼ばれておられます)。
弟子である親鸞は、本師源空や源空聖人と『正信偈』『高僧和讃』などにおいて称されており、師事できたことを生涯の喜びとされました。
経歴
美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるま ときくに)と、母・秦氏君との子として誕生されました。
『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、9歳のとき、源内武者貞明の夜討によって父を失われましたが、その際の父の遺言によってあだ討ちを断念されました。
その後比叡山に登り、初め源光上人に師事されました。
15歳の時(異説には13歳)に同じく比叡山の皇円の下で得度されました。
比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名のられました。
承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(観経疏)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを弘められました。
この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされております。
文治2年(1186年)大原勝林院で聖浄二門を論じ(大原問答)、建久9年(1198年)『選択本願念仏集』(選択集)を著されました。
元久元年(1204年)比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送られました。
しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下され、のち建永2年(承元元年・1207年)法然は還俗され藤井元彦を名前として、土佐国(実際には讃岐国)に流罪となられました。
4年後の建暦元年(1211年)ご赦免になられ帰京され、翌年1月25日に死去、享年80(満78歳没)であられました。
なお、建暦2年(1212年)1月23日に源智の願いに応じられ、遺言書『一枚起請文』を、記されておられます。
法然の門下には証空・親鸞・蓮生・弁長・源智・幸西・信空・隆寛・湛空・長西らがおられます。
また俗人の帰依者・庇護者としては、九条(藤原)兼実・宇都宮頼綱らが著名でございます。
思想と教え
法然上人の思想の根底には、『選択本願念仏集』や『黒谷上人語灯録』などには、「罪悪深重の衆生」「妄想顛倒の凡夫」などという表記が数多く見られ、まず自分を含めた衆生の愚かさや罪といったものへの深い絶望があり、そこから凡夫である衆生の救済への道を探り始めておられます。 
一般に、法然上人は善導の『観経疏』によって称名念仏による専修念仏を説いたとされております。
法然上人の著書『選択集』では、各章ごとに善導や善導の師である道綽のことばを引用してから自らの見解を述べられておられます。
法然上人においては、道綽と善導の考えを受けて、浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説かれておられます。
著書内で、雑行を行う聖道門の行者を盗人に例えたりするなど正行である専修念仏を行うことを強調する文面が多くございます。
その根拠としては『仏説無量寿経』にある法蔵菩薩の誓願を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も讃歎しているとある『仏説阿弥陀経』を示し、他の雑行は不要であるとされておられます。
加えて、仏教を専修念仏を行う浄土門とそれ以外の行を行う聖道門に分け、浄土門を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、聖道門を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定されておられます。
また、称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説かれておられます。
法然上人の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」でございます。
これは『選択集』においても『黒谷上人語灯録』おいても見られるお言葉でございます。
三心とは「至誠心(誠実な心)」「信心(深く信ずる心)」「廻向発願心」であるとされております。
至誠心
誠実に阿弥陀仏を想い浄土往生を願うことでございます。
また、一つに自らが救われたいと思う心の真実、二つに人を悟りに向かわせたいと思う心の真実をさしています。
深信
疑いなく深く信じることでございます。
次の二つがあげられ、一つに自身が罪悪不善の身でいつから輪廻を繰り返してるかもわからず悟りを得る機会がなかったこと、二つに罪人である自分を阿弥陀仏が救って下さることと言われております。
廻向発願心
一切の善行の功徳を浄土往生にふりむけてその浄土に生まれたいと願う心のことを言います。
三心の中でも至誠心と信心が多く語られており、廻向発願心はあまり語られておりません。
三心を身につけることについては、『一枚起請文』にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり」と述べられ、専修念仏を行うことで身に備わるものであると言われておられます。
また、法然上人は念仏を唱える数についても言及されておられます。
このことについては、一念義と多念義という考え方がございます。
一念義とは、一度でも念仏を唱えさえすれば極楽往生は決定するということでございます。
多念義は逆に普段、常日頃繰り返し何度も念仏を行うべきであるという考え方でございます。
法然上人は、多念義を説かれており、門徒の中で一念義を説く者がいることを嘆いておられます。
一念でも十念でも優劣は無いという記述がございますが、これはあくまでも最後の時のこととされております(『黒谷上人語灯録』-念佛往生容義抄)。
日頃の念仏と最後の時の念仏についても優劣はないとされており、最後のときに近づけば日頃の念仏が最後の念仏になるだけだと説かれておられます。
他力と自力については、他力の念仏を勧められておられます。
自力は聖人にしか行えないもので千人に一人、万人に一人二人救われかどうかだとされ、対して他力の念仏は、名を称えた者を救うという阿弥陀仏の四十八願を根拠として必ず阿弥陀仏が救いとってくださるとし、三心を持って念仏を行うべきと説かれておられます。
このように法然上人の教えは、三心の信心にもあるとおり、民衆に凡夫であるということをまず認識させ、その上で浄土に往生するためには、専修念仏が一番の道であるから勧めるから選択するべきだというお考えでございます。


「法然上人二十五霊場めぐり」

法然上人二十五霊場は、浄土宗の開祖である法然上人ゆかりの寺院二十五箇所を巡る霊場巡拝でございます。
1761年に僧霊沢が上人550回遠忌を機に発起されまして、選述した「円光大師二十五箇所案内記」を始まりといたし、1974年に浄土宗開宗800年を記念し、再興されました。
また、当霊場は浄土宗の寺院を中心にした巡拝でございますが、法然上人の御霊跡を巡る霊場でございますので真言宗や天台宗の寺院も含まれております。
札所は中国地方から近畿地方に渡りございまして、二十五箇所の霊場を巡拝するのは、法然上人御入寂の御命日である二十五日にあやかって選定された事によると言われております。

法然上人について
ホームページ制作 | 無料テンプレート
inserted by FC2 system